ほっとひといき|古都の手仕事を訪ねる ~メイド・イン・キョウトの現在

第9回
古くて新しい「畳」で、人の心と縁を繋ぐ


西脇畳敷物店

古くは奈良時代から、ほとんど形を変えることなく現代にまで受け継がれてきた稀な建築資材、「畳」。高い断熱性と保温性があり、優れた吸放湿性は、高温多湿の日本の住まいと暮らしにマッチする。い草のさわやかな香り、家族が揃う居間での団らん、畳の上でのんびり昼寝。利点を挙げれば限りないほど、日本人に愛され続けた床材である。

畳にとって、最大の興隆期が訪れたのは、高度経済成長期以降のことだ。国が豊かになるとともに住宅が増え、畳の需要も大いに高まり、一時は生産が追い付かないほどだったという。

ところが、平成に入るころには、和室の少ない間取りの高層マンションやデザイン住宅などが増え、日本人を取り巻く住環境が大きく様変わりした。日本の畳表の生産量は、2005年には800万枚近くあったものが、この10年足らずで半分以下に減少している。

今回は、日本人の“畳離れ”が囁かれる業界で、果敢なチャレンジを続ける京都・西陣の老舗「西脇畳敷物店」を訪ねた。

京都・西陣にある創業146年の老舗「西脇畳敷物店」
店内の壁にはTV出演時の記念写真や、来店した芸能人のサイン色紙がびっしり飾られている。中央にはなんと、“畳のスノーボード”が。

洋間やマンションへの畳導入も

西脇畳敷物店は、1869年(明治2年)の創業以来、今年で146年目を迎える老舗畳店だ。5代目の西脇一博さんは、昨今の“日本人の畳離れ” について、「今は、畳の歴史の中でも過渡期にあたるんじゃないでしょうか」と語る。

国内資源だけでものづくりをしなければならなかった時代は終わり、海外からもさまざまな建築資材が入って来るのが現代だ。日本の木造建築はもちろんいいものだが、鉄筋の住宅にも優れた部分はある。素材の選択肢が増えれば、どんな家を建てるのかというバリエーションも増える。今までになかった選択肢が広がる中で、畳の需要が一時的に落ち込むのも、ある意味では「自然のなりゆき」だと西脇さんは捉えている。

「一方では、足元が冷えるとか、膝が痛いとか、音が響くからとか色々なご事情で、洋間に畳を敷きたいというご要望も多くなりました。でもね、ひとくちに既存の部屋に畳を敷くと言っても、そう簡単な話ではないんですよ」。

古来、日本家屋の造りは柱や敷居が壁から飛び出さず、平坦につながっている。一方、洋風建築の家は、まず壁ありきの設計で、柱や扉の建具などは凹凸を成しながら配置されていることが多い。また、装飾的な建具が使われている場合は、装飾部品の突起や曲線まで計算に入れねばならず、部屋はさらに複雑な形状になる。さらに言えば、床下の深さも通常の和室とは異なるため、畳自体の厚みも細かく調整し直さねばならない。

西脇さんら畳職人は、そんな部屋固有の形状に合わせて、四角い畳の形をミリ単位で削り、装飾建具に沿うよう曲線すら切り抜いて、部屋にぴったり入る畳をつくる。こうなると、緻密な加工に技術を要するだけでなく、全てがオーダーメイドの作業になり、手間も時間もずいぶんかかる。

「ただし、畳の作り方と施工方法自体は、1,000年前とほとんど同じなんです。完成されていて、改良の余地がないんですね。1,000年もの間変わらないものって、他にあるでしょうか。大したものです」

1,000年間で大きく変わったことといえば、仕事のサイクルの早さだろうか。住環境や生活様式の変化によって「今朝引き上げた畳を張り替えて、夕方には納品して欲しい」という要望も珍しくなくなった。スピードが求められるようになったことで、手作業では間に合わない部分を、機械に頼るようになった側面はある。

現在では、畳を縫う作業は機械に任せることが多いそう。しかしそれも、今までは人間の手で作業してきたのと同じ動作を、機械に肩代わりさせているに過ぎない。

「畳っていうのは、今までもそうやって、柔軟に時代の波を乗り越えながら、今の時代までたどり着いたと思うんです」。

畳床は、米を刈り取った後の稲わらを30cm以上にも積み重ね、それを5~6cmの厚みにまで圧縮して作る。畳床を見ると、稲わらがギュッと縫い縮められている様子が分かる。
畳表の張り替え作業の様子。現在は、樹脂系の素材を畳床に用いることも多くなった。稲わらに比べると軽くて扱いやすく、虫食いの被害に遭わないなど利点もある。
マンションの柱に合わせて、四角く切り抜かれた畳。
西脇畳敷物店の5代目、西脇一博さん。

畳表は、長く刈り取ったい草を選り分け、茎の真ん中あたりの太い部分を使って編まれている。根もとに近い部分と、葉先の細い部分は切り落とされる。

畳表の余分な箇所を切り落とす、専用の「包丁」
畳に縁を付ける作業の途中。畳の断面の様子が見える。
色柄の異なる畳の縁(へり)生地のストック。模様や色によって身分などを示す時代もあったが、現在ではそうした風習はなくなった。
畳の縁を縫いつける機械。作業内容自体は、従来、人が手作業で行っていたことと同じである。

めざすは“世界総畳化”!? - 「日本畳楽器製造」

畳の生産量が一時的に減ること、問題はそれだけに留まらない。西脇さんが危惧するのは職人の数が減ること、そして生産者であるい草農家の数が減ることである。特に、東日本大震災以降は東北の米農家が打撃を受けたことから、畳床の原料となる稲わらも、適切な価格で必要量を確保することが難しくなった。業界全体のパイは、確実に小さくなりつつある。

そんな状況の中、西脇さんが5年前、畳のPR活動のために立ち上げたバンドユニット、その名も「日本畳楽器製造」。畳のギター、ウクレレ、サックス、三味線にお琴、各種鳴り物まで、多種多様の“畳楽器”が演奏に参加する。ライブでは、歌と演奏はもちろん、西脇さんの軽妙なトークと、「タタミ紙芝居」、景品付きの「畳ウルトラクイズ」など、畳について知ってもらう企画を挟みながら展開していく。

現在、趣旨に賛同して演奏活動に参加してくれるメンバーは90名以上。子どもやお年寄りの福祉施設、地域のまつりやイベントなど、常に出演のオファーが絶えない状態だという。

「畳はあくまでも敷物、楽器にするなんて愚の骨頂だと言われたら、それは確かにその通りなんですよ。だけど、歴史の中で異端と呼ばれた人って、どんな偉人でも皆、最初はそんなものだったんじゃないでしょうか。たとえば茶道だって“畳を切ってその下で火を起こして、茶を沸かす”なんてこと、きっとごく草創期には、とんでもないって文句言う人もいたんじゃないかな」。

畳の魅力をもっと多くの人に知ってもらうとともに、畳という素材の持つ新しい可能性も探りたい。日本畳楽器製造での活動は、そんな西脇さんの想いに裏付けられている。

「特に若手職人には、僕がこうして取材を受けたりTVに出たりして面白く仕事している姿を見てもらえたらって思います。無理やり親から家業を継がされて、渋々仕事するんじゃなくてね。若い子たちが“自分の仕事って、結構いい仕事だよな”って捉えて、目標を持って、頑張って仕事を続けてくれるように」。

西脇畳敷物店でも、現在は2名の弟子を住み込みで受け入れ、若手の育成に努めている。昼間の仕事が終わると、彼らは「京都畳技術専門学院」という訓練校の夜学に向かう。そこで、畳の製作技術から経営ノウハウまでを学び、卒業と同時に自分たちの地元に帰っていく。ほとんどは、地方の畳店に生まれた「跡取り息子」たちだそうだ。

「僕の仕事は、ただ、バトンを繋ぐだけ。1,000年以上も続いてきたものを、今さら僕がちょっと頑張ったからって劇的に変わるものでもないでしょう。ただ、諸先輩から受け取ったバトンを、なるべくいい形で、きれいに繋ぎたいとは思うんですよね」。

京都市内地下街でのイベントライブの様子。お客さんと一緒に、簡単な振り付けを練習する一幕も。
「タタミ紙芝居」で畳素材の利点や性質などを紹介する西脇さん。クイズやトークも大いに盛り上がる。
畳のゆるキャラ「たたミンくん」。地域の小学生の声から生まれたキャラクターだそうで、イベント時には、子どもたちに囲まれる人気者。
ハート形の畳ウクレレ。四角以外の形を作るときは、洋服の型紙のように型を取って作製することも。畳の「定石」とは異なる畳楽器の作り方を試行錯誤した経験が、本業の畳の施工時にも役に立つことがあるというから面白い。
日本畳楽器製造の名物、「くまモンギター」。熊本県は、全国の畳表のうち約95%を算出する一大産地であることから。
アーティスト・silsil(シルシル)さんに提供した“畳のキャンバス” 。2015年10月、silsilさんの個展「四季を泳ぐ。」にて展示された。
(http://silsil.info/)

「職人の町・西陣」で畳屋を営むということ

昨年、西脇さんは、父の方彦さんとともに、ある特別な仕事を手掛けることになった。世界文化遺産にも登録されている「上賀茂神社」での式年遷宮の際に使われる畳である。式年遷宮とは、定められた年限に社殿を建て替え、御神体を遷す祭儀のことで、上賀茂神社で定められている年限は21 年ごと。2015 年10 月15日に行われた式年遷宮は、第42回目となる。

上賀茂神社の式年遷宮の際、御神体が鎮座される神聖な畳には、何百年も前に作られた独自の様式があり、それと寸分の狂いもなく同じものを作らねばならない。西脇畳敷物店が、およそ120年前、2代目の頃から代々受け継ぎ納めてきた仕事である。

「譲れない歴史の重みとでも言うんでしょうか。身が引き締まる思いがしましたね。結局、シンプルなものを徹底的に狂いなく作ることが、一番難しいと思うんです。変わった形のものを作るのは、実は、時間と手間さえかければできること。それよりも、気の抜けた部分をどこにも作らず、緊張感を維持してものを作ることのほうがずっと難しい」。

西陣は、織物の町である。街中には職住一体で機織り、紡績、染色など着物と帯の仕事に従事する人が数多く住まう。特に西陣織は、世界でも稀に見る細かい分業制で、場合によっては30以上の工程に分かれて分業を行っているそうだ。

呉服業界は、小さな傷ひとつで100万円の商品が10万円になる世界だ。分業のどこかの段階で手を抜く職人が一人でもいれば、そのミスは、全体に影響する。

「だからでしょうね、この辺のお客さんは、この畳はどうも色ムラがきついとか、線が真っ直ぐ通ってないとか、鋭く品物を見抜く目がある。皆さん毎日、細かい着物地を、目を皿にして見ているような職人たちですよ。そりゃ、畳みたいにざっくり編んだものが見えないはずがないでしょ」と、西脇さんは笑う。

第一は、高い技術で信頼してもらえる仕事をすること。だがそれに加えて、畳職人は、常によその家に上がりこみ、プライベートに踏み込みながら仕事をすることになる。地域における人間的な信用や付き合いの仕方、そんなことが普通以上に大切になる土地柄であり、仕事柄でもあるのだ。

「よその店は○○円だったけど、お宅はいくら?っていうような商売じゃないんですよ。ある意味、インターネット通販とは真逆の商売なんです。畳職人は、人間の、心のひだの部分みたいな繊細なところを汲み取れなかったらダメじゃないかと思うんです」という、西脇さん。

そんな畳屋の商売は、果たして“古くさい”のだろうか。これから高齢化社会を迎える日本では、今後、案外、お客さんのニーズを汲み取るための最先端のスタイルになり得るかもしれない。

西脇さんのつくる畳は、今もこれからも、人々が結びあう縁(えにし)の真ん中にある。

「畳でGO!」( 2015年11月7日 京都市内「ゼスト御池」でのライブ動画)

上賀茂神社(賀茂別雷神社/かもわけいかづちじんじゃ)。昨年10月15日には、21年に一度の式年遷宮が執り行われた。
西脇さんは、大学卒業後10年間をサラリーマンとして過ごしたが、33歳のころ「長男だから、当然自分が継ぐものと思って」と、実家に戻って畳職人へと転身した。

(文:石田 祥子)

【取材協力】
西脇畳敷物店
http://www11.plala.or.jp/nishiwakitatami/

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