日本の素材百科
第6回

漆と蒔絵

艶のある黒や朱色の地に、金や銀、貝などで美しい装飾を施した漆器。「漆」と日本人との付き合いは非常に古く、約5500年前、縄文時代前期の品と推定される彩漆土器も出土している。この出土例は、同時に、漆の並外れた耐久力を物語るものともいえるだろう。

特に、日本の「漆塗り」は、他のアジア諸国の漆器制作とは異なり、数多くの複雑な工程を経てつくられる。その工程は、日本独自の精緻で華やかな蒔絵を描くために編み出されてきた技法でもある。日用品としての身近なうつわから高級調度品・美術品まで、漆は、生活のさまざまなシーンにわたって、日本人とともに歴史を歩んできた素材なのだ。

「漆」― 高温多湿下で固化する塗料
「漆」― 高温多湿下で固化する塗料

漆は、酸やアルカリ、熱や湿気にも強く、光沢のある艶やかな黒や赤で、見た目にも優れる万能の天然塗料だ。一方、工芸分野においての漆は接着剤としても使われる。割れた陶磁器やガラスなどを継ぎ合わせて修繕する「金継ぎ」や、金箔などの箔押し加工にも接着剤としての漆は欠かせない。

日本の漆は、ウルシオールを主成分としている。よく「漆で皮膚がかぶれる」と聞くのは、このウルシオールによるアレルギー反応だ。ウルシオールは、空気中の酸素と反応することで分子どうしが結合し(酸化重合)、高分子を形成して「固化」する。つまり、塗った漆は「乾く」というよりも「固まる」という表現のほうが、より現実に近いだろう。漆は、湿気がなければ乾かない、不思議な素材なのである。

酸化重合反応を促す酵素の働きがもっとも活発になるのは、温度20~25度、湿度80%ほどの高温多湿の環境だ。この理想的な環境を作り出すため、漆を扱う職人の工房には、漆風呂(漆ムロ)と呼ばれる戸板付きの乾燥棚が設置されている。

この漆の性質は、乾いていない塗料の上に金を蒔く=蒔絵の技法など、漆を用いた加飾作業において、とても都合の良いものだ。塗布面の見た目が艶やかで美しいことだけでなく、この漆独特の性質も、塗料として、接着剤として、漆が日本の工芸に広く重宝されてきた理由のひとつだろう。



「漆掻き」と漆の精製
「漆掻き」と漆の精製

漆の木に鎌で溝状の傷を付けると、木は傷を埋めるために樹液を出す。この際、木の水分と漆の樹液が混ざりあって発酵が起きる。掻子(かきこ・漆を採取する人のこと)は、この漆液の発酵の具合を見極め、混ざりあう水分量をその都度調整しながら、より質の良い漆を掻きとっていく。

掻きとった漆の樹液は、和紙で漉した後、桶の中でしばらく発酵・熟成される。これが生漆(きうるし)と呼ばれるもので、水分を20~30%も含む、さらっとした質感の液体だ。

生漆を攪拌して漆の成分を均一な状態にする「なやし」、天日やヒーターを使って生漆の水分を抜く「くろめ」の工程を経ると、半透明の飴色の液体塗料、透漆(すきうるし)が精製される。ここに朱や黄、白などの顔料を加えると色漆になるし、油分を加えた上塗り用、油分を加えない研磨用などの用途に分かれることもある。透漆をベースにして、漆は多種多様の材料へと色や特性を変えていく。

黒漆は、生漆に鉄粉などを加え、生漆に含まれる水分と反応させて酸化させる。その後、透漆と同様に「なやし」「くろめ」の工程を経て黒漆が精製される。この黒色が「漆黒」という言葉の由来にもなった、光沢と深みのある「日本の漆の黒色」だ。


漆塗り―塗りと研ぎで名品をつくる

漆を塗る土台は素地(きじ)と呼ばれ、木や竹の成形品が中心だ。漆塗りは、生漆や柿渋、砥の粉などで素地の状態を整えて補強する下地工程と、刷毛で漆を塗り重ねていく塗り工程の2つに大別される。

塗り工程は、さらに下塗り、中塗り、上塗りに分かれ、塗りの各工程の間に研ぎの工程を挟む。炭に水を付けながら丹念に研ぎ、研磨剤を使って手や指で磨く。名品に見られる漆の光沢と艶やかな質感は、この入念な研ぎと磨きを繰り返してこそ生まれるものだ。

また、きらびやかな漆工の装飾技法には、青や白に美しく光る夜光貝の殻の貝片で施される螺鈿細工、金や銀の薄板を貼りこむ平文(ひょうもん)、絵漆や金粉で鮮やかな文様を描く蒔絵など、実に多種多様の技法がある。

古びた漆器を在るべき姿へ
―蒔絵平野―

京都市内の「蒔絵平野」三代目・平野雅子さんの技術のルーツは、香川県漆芸研究所で学んだ現地の漆芸技法だ。

香川漆芸は「蒟醤(きんま)」「存星/存清(ぞんせい)」「彫漆」という3つの技法に代表される。厚みのある漆面に刀を使って溝を彫り込み、溝に色漆を埋めて平らに研ぎあげる「蒟醤」。色漆で文様を描き、その輪郭や細部に線刻し金泥を蒔き付け沈金を施す「存星(存清)」。そして、漆を塗り重ねて厚い層を作り、漆面を刀で彫刻する「彫漆」。いずれの技術も、何種類もの彫刻刀を用いて華やかに表現する、彫りと色漆の表現技術である。

蒔絵平野では、新作の制作から持ち込まれる品の修理・修復まで、漆にまつわる仕事を幅広く引き受ける。だが、漆器の産地は全国各地に点在しており、産地ごとに技法や特色は大きく異なる。これは特に、漆器の修理において厄介な要素になることがある。職人自身が経験したことのない技法で作られた漆器の修復作業は、暗闇の中の手探りになってしまうのだ。

また、持ち込まれた漆器をどこまで修理するかという点も、判断の揺れるところだ。年月を経た古い漆器は、枯れたような落ち着いた風貌になり、歴史ある品物独特の趣を備えるようになる。これを新品同様に直すことは、必ずしも正解とはいえない。

だからこそ、修理作業の要は、全体のほこりや垢を落として「相手をよく見る」ことだ。預かった漆器を観察するうちに、漆器の制作者がどこに注力してどこに苦労したのか、あるいは制作を楽しんだのか思い通りにいかなかったのか、そんなことが伝わってくるという。

それはまた、時計の針を逆向きに巻いて、漆器の時間をゆっくりと遡っていくような作業でもある。巻き戻していく針をどこで止めるかは、職人と漆器との対話によって決まる。修理・修復作業における職人の仕事とは、漆器自身がこう在りたいと望む姿に整えてやることなのかもしれない。

柳桜蒔絵大棗(りゅうおうまきえおおなつめ)/平野雅子さん
柳桜蒔絵大棗(りゅうおうまきえおおなつめ)/
平野雅子さん


お話をうかがった人

「蒔絵平野」平野雅子さん

「蒔絵平野」平野雅子さん

祖父の代から続く蒔絵師の家に生まれた三代目、平野雅子さん。学校を卒業した当時は、折しもバブル崩壊後の不景気真っただ中の、厳しい時代だった。

「駆け出しのころは、なんとか作家として身を立てなければと焦っていたんですね。ところがある時、公募展の搬入の列で、偶然に人間国宝の方と隣り合わせたことがありました。その方がご自身の作品の包みを解いた瞬間、黒漆の黒の深みがあまりにも圧倒的で“私の作品、全然黒くない!”と、それはもう完全に打ちのめされてしまって」。

作品の芸術性もさることながら、漆は、その「黒さ」自体に価値がある。研いで磨いて、いかに黒く豊かな光沢を出せるかどうかに、制作者の力量が如実に現れるのだ。

この“事件”をきっかけに、まずは経験を積んで腕を上げることが先決と、平野さんは自身でホームページを作って経歴や作品を公開し、漆にまつわる仕事を広く募ってみることにした。すぐに多くの問い合わせと仕事が舞い込むようになり、平成30年度には、地道な実績をもとに京都市伝統産業「未来の名匠」の認定を受けた。

「次は、軽くて扱いやすいユニバーサルデザインで、ご高齢の方に喜んでいただける漆器を作ってみたい。今は人生100年の時代、60代で高齢者と呼ばれるようになってからも、まだまだ時間があるでしょう? みんな年を取るんだから、それを老後なんて呼び方でひとくくりにして、慎ましく過ごさなくてもいい。豪華絢爛な蒔絵付き介護用マグカップだったら、気分を上げて楽しく暮らしていけそうじゃないですか」。

平野さんの手は、誰にとっても身近に訪れる未来を、少しずつ豊かに変えていくだろう。


(取材・執筆/石田祥子  記事監修/蒔絵平野 平野雅子さん)
参考文献:『てのひら手帖 図解 日本の漆工』 加藤寛 監修(2014年/東京美術)
『地域資源を活かす 生活工芸双書 漆(1)漆掻きと漆工 ウルシ利用』 室瀬和美、田畑雅進 監修 阿部芳郎、宮腰哲雄ほか 著(2018年/一般社団法人 農山漁村文化協会)


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