日本の素材百科
第13回

杉と北山丸太

職人が鎌や鉈を携えて、はしご一つで杉の木の幹を7~8メートルも登っていく。何本もの枝を落とすたび、林の中にはカツカツ、コンコンと小気味の良い枝打ちの音が響く。枝打ちによって、表面に節(枝の痕)のない良質な木材が得られるとともに、隣り合う木の枝同士が過密になるのを防いで、森林内の健全な生育環境が整えられる。落ちた枝葉は、やがて朽ちて木々の肥料となる。

日本人は、古くから豊かな山林の恵みを木材として借り受けながら暮らしてきた。他方で、欠かさず山野の下草を刈っては枝を打ち、常に整えながら、生業を支える山への畏敬と感謝を表してきたのだ。

北山杉・北山丸太とは

京都市北区の山間部エリア「北山」は、日本最古とされる人工林の銘木生産地だ。その歴史はおよそ600年と言われ、室町時代には、北山で産出された杉の木材が茶室や数寄屋建築の建材として用いられていた。北山杉には節が少なく、断面は真円で、木の下部(元)と上部(末)の太さがほとんど変わらずまっすぐに伸びる。年輪は緻密で硬く、曲げ性能に優れ、ひび割れが生じにくい。

この北山杉の樹皮を剥いて乾燥させ、さらに表面を磨くと、白く上品な艶と光沢のある滑らかな木肌が表れる。これが「京都府伝統工芸品」、および「京都市伝統産業品」に指定される北山丸太だ。桂離宮や二条城の建造にも使われた高級意匠材(インテリア材)で、シンプルな磨丸太のほかに、絞丸太やタルキといった多種多様の種類がある。手斧などで一部を製材して、断面の木目の美しさを楽しむ面皮柱も趣きが深い。いずれも、同じものはこの世に二つと存在しない、魅力的な自然の賜物である。

北山磨丸太
北山天然出絞丸太


北山天然入絞丸太
(チリメン絞)
左:面皮柱 右:ナグリ柱



苗木から磨丸太へ

通常、北山杉は、優れた品種の親木から穂摘みして挿し木で増やす。挿し木から2年ほど経ったら、発根の良い苗木だけを山へと植樹する。

枝打ちは、良質の北山丸太を作るために最も重要な作業といっていい。初回の枝打ちは植林後の6 ~7年目に行われ、その後も数年ごとに繰り返す。職人は、はしごで高所まで登り、鋭利に研いだ鎌や鉈でなるべく幹に近い場所を打って枝を落としていく。その後、数年、数十年を経て幹が成長すると、枝打ちの痕を覆い隠すように幹が太くなり、外側に向かって年輪が形成されていくのである。

絞丸太は、木肌に自然にできたコブ状、波状の凹凸(絞り)が珍重されたことが始まりだ。これを人工的に再現しようとしたものが、人造絞丸太である。人造絞丸太をつくるには、伐採の2 ~3年前に箸状のものを幹に巻き付け、針金で留めたまま育てる。すると、箸を巻き付けた部分は窪んだままになり、人工的に絞り模様を成形することができる。

植樹から出荷までは、およそ30年か、それ以上。9月から11月に伐採され、伐採後1カ月ほどその場で葉枯らし乾燥を行ってから運び出す。搬出された丸太の樹皮は、以前は一本一本、職人がへらを使って手作業で剥いていくのが主流だったが、近年では、機械の強い水圧を利用して粗皮を剥く方法も多い。

最後に、残った薄皮を丁寧に取り除き、乾湿の変化による割れを防ぐために、背面に切れ目(背割り)を入れる。木材を十分に乾燥させたあと、表面を磨きあげて仕上げる。小さな苗木から丸太になるまでの長い歳月、北山杉の木は、数多くの職人の手から手へと渡って育つのだ。

天然絞丸太
人造絞丸太


北山の「台杉」

500年台杉

北山の森林地帯は狭く、生産に必要な土地を十分に確保できなかったことから「台杉」という独特の仕立てが考案された。台杉を仕立てる際には、最初の枝打ちで数本の枝だけを放射状に残し、上枝の大部分を打ち落としてしまう。十数年後、残した枝が十分発達したら、さらに主幹部を伐り取る。やがて大元の幹は大きく太く育つが、樹高2メートルよりも上には、細い幹ばかりが数多く伸びていくことになる。

タルキ(垂木)丸太材は、一般的に長さ3メートル、直径3~4センチメートルほどの、細く小ぶりな材木だ。これら上部の細い幹を、適寸に育ったものから順次伐採していく。こうして木の上部だけを更新し続けることで、一本の台杉から、多数のタルキ丸太を何度も効率よく収穫することができるのだ。

今でも北山・中川地区には古木・500年台杉の姿を見ることができる。


北山丸太の需要変化を見つめる――株式会社 山政

水が豊かで涼しく、北山杉の育成に適した風土を有する中川地区。この中川に倉庫と工場を構える株式会社 山政は、1868年の創業だ。代々生産業者として山の仕事を担ってきたが、1980年に法人化して以降、北山丸太の卸売業に事業の軸足を移した。

北山丸太の出荷量は、1988年度の約16万3千本が過去最大値として記録されている。ただし、その後の需要は低迷し、現在の出荷量はピーク時の20分の1程度にまで落ち込んだ。現在でも、細く長く5メートル以上にも育ったものや、元と末の太さに差が少ないもの、バランスの良いものは非常に価値のある希少品で、競り合いの末に高い価格が付くが、一方、わずかでも瑕疵のあるものは、卸の倉庫に長くストックされがちになる。

傷のある材は売り物にならないし、自然にできた窪みや節でも、位置や程度によっては買い手から敬遠される。ところが、伐採した木は工場に運んで剥いてみるまで、皮の下がどうなっているのか分からないのだという。30年以上かけて丁寧に育てても、本当に良い材に巡り合えるのは稀だというから、気が遠くなるような話だ。

一方で、たとえば床柱用の北山丸太の多くは全長3メートル。そのごく一部分に難があったところで、該当部分を切り落とせば、北山丸太は依然、国内有数の性能・品質に優れた高級木材である。倉庫で、ただ眠らせておくには忍びない。

そこで山政では、近年、身の回りの人脈を通じて小さな依頼を引き受け始めた。たとえば京都嵐山にある友人のカフェのために、ギターのピック型をしたオリジナルのコースター。目を引く大きな看板や、企業のノベルティグッズ。また、知人の木工作家・三輪木工に倉庫と工場の一部をシェアし、作家の作る葬儀用の木棺への材料提供もスタートした。

川端康成の小説「古都」にも描かれた、北山の豊かな山林と北山杉。時代が移り替わっても、これらの美しさが揺らぐことはない。ただし、これを世に送り出す側には、この先、幾度も価値の転換が求められることになるだろう。作り手たちの知恵と発想が、伝統の先にある明日を描いていくのだ。

農園「ひまわり王国」
カフェ「SARUT COFFEE(サルーコーヒー)」
のオリジナルコースター

三輪木工による、北山杉の木棺


お話をうかがった人

「株式会社 山政」
専務取締役 山中 秀祐さん

北山・中川地区の株式会社 山政。次代の山中秀祐さんは、会社の7代目となる。大学卒業後は運送業に就職して働いたが、30歳のころ、先代である父が病気をしたタイミングで家業に呼び戻された。山政でも、かつては高級材が飛ぶように売れたというが、山中さんは、その時代を全く知らない。

「当初、なんか気負いがあって、しばらくの間、丸太以外の仕事をしたらあかんような気がしてたんですよ。だから他の仕事で稼いでも後ろめたくて、初めはなかなか人に言えなかった」。

それでも山中さんは、手が足りないと聞けば職人を手伝って山に入り、知り合いから木工の仕事を請け負い、同業・異業種に関わらず他社のサポート業務も喜んで引き受けた。自分の仕事が求められる場所で、たくさんの人の輪の中で楽しんで働けるほうが、ずっといい。「人に助けられていることの方がずっと多いですけどね」と、山中さんは笑う。

もともと、中川の林業関連の会社同士は、互いの得意分野を生かして、支え合いながら仕事を維持してきた。ところが業界では急速に高齢化が進み、今や、中川では40代半ばの山中さんが最若手だ。

「僕はね、いま山に残って出番を待ってる木を外に出したいんですよ。いろんな人に使ってもらえるような形にして、世の中にどんどん出してやりたい。だから、北山杉の仕事自体を存続させるためにも、本業にこだわらないで何でもやらないとね。今は、一人でも多く仕事をやれる人が必要な時だと思うから」。

林業は、今育てている木を何十年も先の未来へと送る仕事である。一寸先の需要すら読みづらいような令和の時代において、それでも山中さんは足取り軽く、また力強く、険しい道を切り拓いていく。


(取材・執筆/石田祥子  記事監修/山中秀祐さん)
参考文献:『日本の原点シリーズ 木の文化1 杉』 (2003年/新建新聞社)




PAGE TOP